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2012年10月19日

神の霊感のシャワーに打たれた詩?! 「秋の祈」高村光太郎 +【世界の秋の写真とニュース】


秋に祈る…
すると、
大切なものが、光のように
降り注いでくる…。
秋のシャワーを浴びよう◇

信州の空♪


魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる




高校の時、教科書に載ったこの詩に触れて、好きになりました。
とても難しい詩なのですが、なんだか、秋晴れの空の下、大きな声で朗読したくなるような(実際は絶対しないのですが)爽やかな詩、そういう印象で、空は喨々と空に鳴り…というリズムや音感も好きでした。

秋のすがすがしい空と空気に触れて、若い魂が踊るような感動を表現したものか、と感じていました。

今、改めて読んでみると、彼は秋の空や自然を通して、神様に会ったのだろうと思います。神か、何か見えないけれど偉大な存在に。

祈る言葉もなく、ただ空を仰いでいた。
本当は、言葉は必要ないのでしょう。強烈なインスピレーションですね。

「よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまず)く」という表現の中にあるように、彼は根底に罪悪感のようなものを持っていて、だから喜びと共に、畏れも感じています。また寂しさも感じています。

人はみな、どこか心の底に、本当の自分でいないことの後ろめたさや、やりきれなさを持っています。このままではいけないのに、という思いもあります。
また、誰もわかってはくれない、そんな孤独感もあります。

この詩には、そんな畏れや孤独からも、解き放たれるような、開放的なものを感じます。
言葉もなく祈る中で、無言の答えがあったのでしょうか。

秋の澄み切った空を見上げながら、光や空気、自然の様子を感じながら、滝にでも打たれたかのように、霊感に満たされる。これは神様の精神に触れた、貴重な体験をつづった詩だと思います。
(読みやすいように現代かなになおし、振り仮名を振ってみました。)




「 秋の祈(いのり)


秋は喨々(りょうりょう)と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端粉雑の過去は眼の前に横たわり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此(これ)を見る
地中の営みをみずから祝福し
わが一生の道程を胸せまって思いながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣のキキとして奔(はし)るを見
飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
かくの如き因果歴々の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責めを思い
堪えがたく
よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまず)
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨々と空に鳴る


高村光太郎
「道程」より



尚、冒頭に抜き出した部分、「魂いななき」というのは、私的に、秀逸だと思う部分です。
すでに「秋」と「空」という言葉を出した後なので、「天高く 馬肥ゆる秋」という言葉を連想させ、秋晴れが目にどうしても浮かんできてしまうのです。

秋という季節が、深く味わいがあるものの、一言でいって、気持ちがいいのと同じで、やはり、気持ちのいい詩です。


今日もいい一日を

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写真は:信州の空♪
by (C)ヨマさん
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【kuri-maの高村光太郎関連記事】
 東京に空がない?!「あどけない話」高村光太郎 智恵子抄より
 東京には空がなく、僕の前に道はない、…秋の祈りとは?!
  ↑ ここでも「秋の祈」を紹介しています
 私の前に道はない、後ろには道ができる?!








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2011年10月09日

《臨時記事》今日は十三夜です


お月さま〜
去る9月12日中秋の名月は満月でした★


突然ですが、今夜は十三夜だったようで、忘れていたので、臨時記事を入れることにしました。
昨年は10月20日、来年は27日ですが、今年は早いんですね。
旧暦の9月13日が毎年その日なのですが、年により違うので、ややこしいですね。

さっき、何かの予感のようにふと「十三夜っていつだっけ?」と調べると今日でした。慌てて空をみると曇っていたのですが、今は雲も晴れてきました。やはりきれいですね。
皆さんもお月見してみてください。

今夜を見逃しても、しばらくは月がきれいな晩になるでしょう。



十三夜については昨年の記事を参考にしてください。
 十三夜、片月見は縁起が悪い?!
 今夜は十三夜、「片月見」は縁起が悪い?!(2)



写真は: by (C)緋佳さん
お月さま〜
2011.9.12(旧暦8.15)
中秋の名月は必ずしも満月になるとは限らないのですが
今年は前回の2005年以来6年ぶりに満月となりました

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2011年09月22日

りんごは「苹果」って知ってました?! 宮沢賢治の心


99809438_v1316650207岩手の海岸.jpg


ひとはすでに二千年から
地面を平らにすることと
そこを一様夏には青く
秋には黄いろにすることを
努力しつづけて来たのであるが
何故いまだにわれらの土が
おのづからなる紺の地平と
華果とをもたらさぬのであろう
向うに青緑ことに沈んで暗いのは
染汚の象形雲影であり
高下のしるし窒素の量の過大である

               
宮澤賢治



昨日は宮沢賢治の命日でした。以前、「雨ニモマケズ」は紹介したことがありますが(こちら)今日はこの季節の頃の賢治の詩を紹介します。

九月なかばとなりて
   ようやくに苹果青(りんごせい)のいろなせる
稲の間を
   農事試験場三十年の祭
見に行くという人々に伴いて
   あした(朝)はやく急ぎ行きしに
   蜂の羽の音しげく
   地平のはてに汽車の黒きけむりして
   エーテルまたはクロロフォルムとも見ゆる
   高霧あえかに山にかかりき



りんごというのは、林檎という漢字しか知りませんでしたが。苹果と表記されていたようですね。
調べてみると、中国ではりんごは苹果といい、林檎という果実はあるのですが、りんごではない他の果実を言うようです。
賢治は「苹果」という言葉にこだわって使ってきたようですが、日本語としては、今ではほとんど残っていませんね。

「稲」は賢治には特別の関心と思いがあるものでしょう。少し、薄い黄色になってきたということでしょうか。

汽車の煙を、「エーテル」とか「クロロホルム」で比喩していますが、エーテルとは物質界に漂っているとしてかつて(19世紀までは)信じられていたものだといいます。クロロホルムも匂いは特殊だといいますが、無色透明な薬品です。汽車の煙が高い霧となったように美しくほのかに漂っているのでしょう。


下はもう少し秋めいた頃の歌でしょうか。賢治の直筆楽譜もあり、曲風は穏やかな賛美歌かなぁという感じになっています。
こういうのが情景的にはミレーの落穂ひろいに通じるものがありますね。

kobo.jpg

耕母黄昏

風たちて樹立さわぎ
鳥とびてくれぬ
子らよ待たん いざかへれ
夕餉たきてやすらはん

風たちて穂麦さわぎ
雲とびてくれぬ
子らよ待たん いざかへり
夕餉たきていこひなん



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写真は:「岩手の海岸」
akemiさん
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