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2015年08月14日

「忍びがたきを忍び…」 終戦の勅書(玉音放送)は何と言っているの?!<現代訳>  ★【写真特集】ペルセウス座流星群、世界各地で観測 今年は当たり年

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2015.08.11 追分市民の森 マリーゴールドにオオシオカラトンボ


時運(じうん)の趨(おもむ)く所、
耐え難きを堪え、
忍び難きを忍び、
以て(もって)万世(ばんせい)の為(ため)
太平(たいへい)を開かむと欲す。


終戦の詔書(玉音放送)より



718px-Imperial_Rescript_on_the_Termination_of_the_War3.jpg
終戦の詔書


明日は終戦の日。

玉音放送として知られている、終戦の詔書、これは安岡正篤(やすおかまさひろ)氏が、加筆し完成したということです。
昭和天皇が巡幸の折などに話されているお言葉に比べると、ずいぶん難しい言葉使いですから、やはり安岡氏の手によるものであることは間違いないと思います。

難しくはありますが、とても素晴らしい内容です。

この記事の冒頭に抜き出した部分は、一番有名な箇所ですね。

意味はこうなります。
「私は時の運に逆らわず、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、万世(後の世)のために太平を切り開こうと思うのです」

つまり、堪えられないようなこと、我慢できないようなことにも耐えて、未来の平和を切り開こうと言われているのです。

耐えることの難しかった、戦中戦後の、日本国民の心に残った部分だったのでしょう。
そのお言葉を胸に、頑張っていけたのではないかと思います。

この玉音放送は、ドラマでは何回も聞いたことのある、有名なものですね。
ラジオから直接、それを聞いた、当時6歳だった母が言うには、もっとずっとよく聞こえなかったといいます。
ドラマでも十分聞きづらいと思うのに、本当に何を言っているか分からなかったことでしょう。

放送では、録音版による天皇陛下の詔書は5分ですが、同じ内容をアナウンサーが朗読し、その他の終戦関連ニュースも合わせて37分の放送だったといいます。

よく考えてみれば、ドラマなどでは、当然のように使われているものだというのに、国民である私たちは、正しい意味を知らないでいたのです。なんだかおかしいことです。
歴史でしっかり学ぶべきことなのではないでしょうか。

現代の私たちに分かるように、現代語訳を掲載します。できるだけ原文に近い形でと考えて、修正しています。


 私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを考えて、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良な国民に告げます。


 私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させました。


 そもそも日本国民の安全を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が遺してきた教えであり、私が常々大切にしていることです。

米英二国に対して宣戦した理由も、日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではありません。


 ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇戦、我が多くの公職者の懸命な働き、我が一億国民の奉公も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していませんし、世界の大勢もまた我国に利がありません。

加えて、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至りました。


 このまま尚戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招来させるだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊しかねないでしょう。

このようなことでは、私は一体どうやって一億の愛すべき国民を預かっている立場で、代々の天皇の御霊に謝ることができましょう。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言(無条件降伏)に応じさせるに至った理由です。


 私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ません。

日本国民で、戦地において死した者、公務にて殉職した者、その遺族に想いを寄せると、我が身が引き裂かれる思いです。また戦傷を負ったり、災禍を被り、家業を失った人々の厚生については、私が深く心を痛めています。


 考えれば、今後日本の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではないでしょう。

あなたがた国民の本心も私はよく理解しています。

しかしながら、私は時の運に逆らわず、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、万世(後の世)のために太平を切り開こうと思うのです。


 私は、ここに国体(国家としての形)を護持することができたので、忠義で善良な皆さんの真心に信頼を寄せ、常にあなたがた国民と共にいます。

もし感情の高ぶりからむやみに事件を起したり、あるいは同胞(同じ日本国民)を陥れたりして、互いに時勢を混乱させ、そのために大道(正しい道)を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も戒めたいことです。


 ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで伝え、神国の不滅をかたく信じ、責任は重くかつ道のりは遠いことを思い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操(志)をかたくし、誓って国体(国のあるべき姿)の精華を発揚し(優れた点を高め)、世界の進運に遅れを取らぬよう決意しなければなりません。


 あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して身をもって行ってください。



昭和天皇の肉声の動画もありましたので、掲載しておきます。
(上の現代語訳にも参考にしました。)
また、念のため、原文も記事末尾に掲載します。





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終戦の詔書(玉音放送):

(ちん)深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑(かんが)み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。朕は帝國政府をして、米英支蘇四國に對し、其(そ)の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。抑々(そもそも)、帝國臣民の康寧(こうねい)を圖(はか)り萬邦共栄の樂(たのしみ)を偕(とも)にするは、皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の遺範(いはん)にして、朕の拳々(けんけん)(お)かざる所、曩(さき)に米英二國に宣戦せる所以(ゆえん)も、亦(また)實に帝國の自存と東亞の安定とを庶幾(しょき)するに出て、他國の主權を排し領土を侵すが如きは、固(もと)より朕が志にあらず。然るに、交戰巳(すで)に四歳を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戰、朕が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の勵精、朕が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公、各々最善を盡せるに拘(かかわ)らず、戰局必ずしも好轉せず、世界の大勢亦我に利あらず。しかのみならず、敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して、頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所眞(しん)に測るべからざるに至る。而(しか)も、尚交戰を継續せむか、終(つい)に我が民族の滅亡を招來するのみならず、延(ひい)て人類の文明をも破却すべし。斯(かく)の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子(せきし)を保し、皇祖皇宗の神靈に謝せむや。是(こ)れ、朕が帝國政府をして共同宣言に應ぜしむるに至れる所以なり。朕は、帝國と共に、終始東亞の解放に協力せる諸盟邦に對し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝國臣民にして戰陣に死し、職域に殉じ、非命に 斃(たお)れたる者、及(および)、其の遺族に想(おもい)を致せば、五内(ごない)為に裂く。且(かつ)、戰傷を負ひ、災禍を蒙(こうむ)り、家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。惟(おも)ふに、今後帝國の受くべき苦難は、固(もと)より尋常にあらず。爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨(おもむ)く所、堪(た)え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世の為に太平を開かんと欲す。 朕は、茲に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。若し夫(そ)れ、情の激する所、濫(みだり)に事端を滋(しげ)くし、或は、同胞排擠(はいさい)互に時局を亂(みだ)り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく擧國一家子孫相傳え、確(かた)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)ひ、總力を將來の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏(かた)くし、誓って國體の精華を發揚し、世界の進運に後(おく)れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克(よ)く朕が意を體せよ。

   御 名 御 璽
   昭和二十年八月十四日



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2015年03月04日

(感動実話)日本の今があるのは?! 「天皇陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた!」  ★動画:英ウィリアム王子初来日、東日本大震災の被災地などを訪問へ★両陛下と懇談

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2015.03.02 大池公園 ウメ 交梅


終戦直後、終戦とは言っていますが、敗戦、それも無条件降伏という状態の日本は、まさにまな板の上の鯉であり、アメリカを中心とする連合国家、更に終戦間際に参戦して油揚げをさらっていこうとするソ連とで、いかように料理されようと、なされるがままでした。

当時の状況からいけば、日本は4つくらいに分断され、植民地化されても仕方のない状態だったということです。
そうなれば、北海道はまるまる共産政権下のソ連のものとなっていたことでしょう。
「北海道はでっかいどう」などと言われることもなく、自由に旅行に訪れることもできない地になっていたことでしょう。

しかしなぜか日本は、今の日本のまま丸ごと残されることになりました。

この事実は、日本人として知るべきことであって、とても感動する内容です。
いろんな思想や思惑の人たちに遮られてか、今まで一般常識であるべきこの事実を、知る人ぞ知る段階で留められてきてしまったことは悲しいことです。

私は知っている内容でしたが、フェイスブックでシェアされてきて、また感動しました。知っている人も、知らなかった人もどうぞお読みください。

何が日本の命運を分けたのか。その秘密が分かるエピソードです。


「…(終戦時において)陛下に対する
占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、
これを絞首刑にする。

一つは共産党をおだてあげ、
人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。

三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。
そうでなければ、
20個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。

また第四番目は、闇から闇へ、
一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。

いずれにしても、
陛下は殺される運命にあったのです。

天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、
いつでもつかまえられる。

かつては1万8000人の近衛師団に
守られたかもしれないが、
今や全くの護衛を持たずして、
二重橋の向こうにいる。…

陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)
陛下から目を離さんように命じました。

じつに一番悩まれたのは、
陛下でありましたでしょう。

9月27日、
陛下がただ一人の通訳を連れて、
マッカーサーの前に立たれたことは、
皆様方もよくご承知の通りであります。

ついに天皇をつかまえるべき時が来た。

マッカーサーは、
二個師団の兵力の待機を命じました。

マッカーサーは、
陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、
傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえ、
ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、
国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき8000万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』

天皇は、
やれ軍閥が悪い、
やれ財界が悪いと言う中で、
一切の責任はこの私にあります、

絞首刑はもちろんのこと、
いかなる極刑に処せられても…
と淡々として申された。

このような態度を見せられたのは、
われらが天皇ただ一人であったのです。

陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、
スクッと立ち上がり、
今度は陛下を抱くようにして座らせました。

そして部下に、
「陛下は興奮しておいでのようだから、
おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、
直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」と。

陛下は、再びスクッと立たれ、
涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と。

そののちマッカーサーは、
陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。

皆様方、日本は8000万人と言いました。
どう計算しても8000万はおらなかったでしょう。

いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして8000万でしょうか。

じつは6600万人しかいなかったのです。

それをあえて、マッカーサーは、
8000万として食糧をごまかして取ってくれました。

つまりマッカーサーは、
いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。

米国大統領からは、
日本に1000万の餓死者を出すべしと、
マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、
食糧放出を8000万人の計算で出してくれました。

それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであった
というのが、事の真相です。

---------------------------------------

あの戦争は昭和天皇でさえ止められない程、
巨大な力がうごめいていました。

憎むべきは昭和天皇でなく、アメリカでもなく、
軍部でもありません。人の際限なき欲望なのです。

ただ、現在日本国で日本人が生活できてるのは
先人達のおかげだということは素直に感謝し誇りに思います。

このような事実を知らない多くの人々に
伝えるためにシェアお願いします。

この出来事は決して遠い昔の話ではありませんでした。だから考えさせられます。




日本人が有能だからではなく、働き者だからではなく、もちろんそれもあるのですが、日本が今あるのは、亡き昭和天皇というたった一人の人の、自らを犠牲にしても国民を生かそうとする切実な思いでした。
そしてマッカーサーという人との出会いが、日本の行く末を変えたのですね。

そうでなかったら、今の日本が、飢えで苦しむアフリカなどの国々や、例えば北朝鮮以下の生活をしていたとしてもおかしくはなかったのです。少なくとも、アジアの他の貧しい国々よりも貧しくても何の不思議もなかったということでしょう。

私も、こんな風にブログを書いていることも、きっとなかったでしょう。
これは、単なるラッキーではなく、心から感謝することだと思います。ありがとうございます。


今日もいい一日を

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2015年02月28日

戦後の日本を復興させた天皇の祈り!そして今も?! ≪感動≫昭和天皇の涙   ★17年前に誘拐された赤ちゃん、家族と偶然再会 南ア

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2015.02.24 長屋門公園 お茶処


昨日、「天皇とは祈る存在」という竹田恒泰さんのお話を紹介しました。そして「国民一人ひとりの幸せ」を祈っておられる天皇なのだと。

まさにそれがよく分かる、エピソードを紹介します。
戦後間もなく、昭和天皇が取られた決断と行動、その背後には、日本国民への深い慈愛がありました。

昭和天皇に関しては、以前も日本を救ったのはこの方だったという感動エピソードを紹介しましたが、戦後、焼け野原の中、日本に復興の思いを起させたのも、やはりこの方だったようです。

少し長いですが、感動的なエピソードです。


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【昭和天皇の涙】

昭和20年8月の終戦後、
日本は未曾有の食料危機となりました。
物価も高騰しました。
食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りず、
不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。

それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、
価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、
どう生きるべきかという規範さえも失い、
呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配していた。

そんな日本人が、ある事件をきっかけに、
国土復旧のために元気になって立ち上がった。
そのきっかけとなったのが、
昭和天皇の全国御巡幸だったといわれています。

昭和天皇の御巡幸は、昭和21年から、
神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、
足かけ8年半にかけて行われました。

全行程は3万3000km、
総日数は165日です。

この御巡幸を始めるにあたり、
陛下はその意義について次のように述べられています。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−

この戦争によって祖先からの領土を失い、
国民の多くの生命を失い、
たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、
どうすればいいのかと考え、
また退位も考えた。
しかし、よくよく考えた末、この際は、
全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、
また復興のために立ちあがらせる為の
勇気を与えることが自分の責任と思う。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そして昭和24年5月。
九州への御巡幸でのこと。

この日、陛下は、たってのご希望で、
佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に御巡幸されています。

このお寺には洗心寮という引き揚げ孤児の寮がありましたが、
戦災孤児や引き揚げ者の境遇を気にかけておられた昭和天皇は、
ここを佐賀県での最初の御巡幸先にされたのです。

その洗心寮で見られたのが次のような光景でした。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、
部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。
ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、
子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしない。
昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、
みな、呆然と黙って立っている。

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、
腰をかがめて挨拶され、
満面に笑みをたたえていらっしゃる。

それはまるで、陛下が子供達を
御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました」

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」
とにこやかにお応えになる。

そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」
と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりに
まるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」
とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、
その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。

この「立派にね、元気にね」の言葉には、

「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、
フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、
お父さん、お母さんがいないことは、
さぞかし淋しかろう。悲しかろう。
けれど今、こうして寮で立派に
日本人として育ててもらっていることは、
たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。
これからは、今までの辛かったことや
悲しかったことを忘れずに、
立派な日本人になっておくれ。
元気で大きくなってくれることを
私は心から願っているよ」
というお心が込められているのです。

そしてそのお心が、短い言葉で、
ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。

陛下が次の部屋にお移りになると、
子供達の口から
「さようなら、さようなら」
とごく自然に声がでるのです。

すると子供達の声を聞いた陛下が、
次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、
その子に
「さようならね、さようならね」
と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

こうして各お部屋を回られた陛下は、
一番最後に禅定の間までお越しになられます。
この部屋の前で足を停められた陛下は、
突然、直立不動の姿勢をとられ、
そのまま身じろぎもせずに、
ある一点を見つめられます。

それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、
おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、
この禅定の間では、うってかわって、
きびしいお顔をなされた。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、
沖森知事も、県警本部長も、
何事があったのかと顔を見合わせます。

重苦しい時間が流れる。

ややしばらくして、
陛下がこの部屋でお待ち申していた女の子に、近づかれました。
そしてやさしいというより、
静かなお声で、引き込まれるように

「お父さん。お母さん」
とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、
何事があったのかわからない。
陛下の目は、一点を見つめています。

そこには、女の子の手には、
二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。

陛下は、その二つの位牌が
「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、
はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」
とお尋ねになります。

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。
母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。

すると陛下は
「おひとりで?」
とお尋ねになる。

父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

「いいえ、奉天からコロ島までは
日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
船に乗ったら船のおじさんたちが
親切にしてくださいました。
佐世保の引揚援護局には、
ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子が、そう答えている間、
陛下はじっとこの子をご覧になりながら、
何度もお頷かれました。

そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい」
と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけられた。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、
この子は口元を引き締め
「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子ですから」

陛下は少し驚いて女の子の目を見つめたが、
女の子はひるまずに続けた。

「仏の子は、亡くなったお父さんとも、
お母さんとも、お浄土に行ったら、
きっとまたあうことができるのです。
お父さんに会いたいと思うとき、
お母さんに会いたいと思うとき、
私は御仏さまの前に座ります。
そしてそっとお父さんの名前を呼びます。
そっとお母さんの名前を呼びます。
するとお父さんもお母さんも、
私のそばにやってきて、
私を抱いてくれます。だから、
私は淋しいことはありません。
私は仏の子供です」

こう申し上げたとき、
陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。

この子も、じっと陛下を見上げています。

陛下とこの子の間に、
何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられます。
部屋に入られた陛下は、
右の御手に持たれていたお帽子を、
左手に持ちかえられ、
右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。
これからも立派に育ってくださいね」
と言葉をかけられた。

そのとき、陛下のお目から、
ハタハタと大粒の涙が一つ、二つ、
お眼鏡を通して畳の上にこぼれ落ちた。

すると、ふいに女の子は、小さな声で
「お父さん?」
と呼んだそうです。

これを聞いた陛下は、
深くおうなずきになられた。

その様子を眺めていた周囲の者は、
皆、言葉をなくして顔を覆った。

東京から随行してきていた新聞記者も、
肩をふるわせて泣いていた。

もはや陛下はあふれる涙を隠そうともしない。
陛下にはこらえられぬ事のない
剛の風を備えた武人の一面もあった。
が、この時ばかりは、ついにこらえるのを
あきらめてしまったようだった。

寮を去るまで付いてきてしまった大勢の子どもたちに見送られ、
天皇は因通寺を後にした。

皇居にお帰りになられた昭和天皇は、
この時のことをこう詠まれました。

「みほとけの教へまもりてすくすくと
生い育つべき子らに幸あれ」

この御製は因通寺の梵鐘に刻まれているそうです。

参照:ぼやきくっくり,ねずさんの ひとりごと

------------------------------

日本の皇室は世界で最古であり
日本は世界最古の独立国とも言われます。
東日本大震災もそうですが、
戦後の日本が復興できたのも
天皇の存在やご巡幸は
とても重要だったと思います。

日本の歴史の中で天皇という存在は
きっと日本国民の心の中深くに、
存在してきたのではないでしょうか。

【昭和天皇の涙】
あなたが輝く幸せのことば より



「私は仏の子ですから」と言った女の子もすごいですし、天皇陛下の、深い祈りの蓄積と愛情ゆえに、きっと不思議なことが起きたのでしょう。

祈ってくれる存在がいるということ、それはどんなにありがたいことでしょうか。

こういう貴重な日本だから、私たちもお互い祈り合い、幸せになっていきましょう。



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