見えないものを信じる心、
神様を信じる心が、
一番ぶれることがなく、
正しく、美しい「愛と勇気」
に通じている
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神様を信じる心が、
一番ぶれることがなく、
正しく、美しい「愛と勇気」
に通じている
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先日、娘と「シンデレラ」を見に行きました。
テーマは亡き母がシンデレラに遺した「愛と勇気」でしょうか。
惜しいなぁと思いました。そこに神様が入れば、満点なのに…。
このシンデレラという女性が素晴らしいのは、どんな時にもその母の言葉を守って、愛と勇気をもって苦労もいとわず、境遇に不満も言いません。
そして、継母や義理の姉たちの暴言や酷い仕打ちにも、恨んだり、復讐したりということをしないのです。
そして、最終的には、「私はあなたを許します」と、許してあげました。
また、彼女は人や物事を見かけなどで判断しません。偏見もなく、あくまで、優しい愛の目で見つめるのです。
ですから、王子様に会った時にも、心を通わせることができたのでしょう。
彼女は、王子様を求めたのではなかったのです。
愛して、信じていく勇気を持っただけなのです。
よくよく考えてみたら、なかなかできることではありません。
シンデレラ・ストーリーというと、玉の輿に乗るラッキーな女性の話のようですが、そうではありません。
この女性は、王妃にふさわしい徳をもった人、といえるかもしれません。
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「シンデレラ」という呼び名は、灰かぶりの少女みたいな意味だったと思います。
映画の中では、「エラ」という名前で、灰まみれのエラだから「シンデレラ」だと、義姉がからかいを込めて呼んだところから始まりました。
けっして、良い意味ではないのに、最終的には、彼女自らが「シンデレラ」よ、と自称していました。
最低の名が最高の名に変わったのです。
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そもそも、彼女が目標とし、身につけていった「愛と勇気」
これは、実は神様が土台になるかと思います。
神様は真実の愛と真理と善の存在です。愛と勇気は、神様から来るのです。
神様を信じ、真実の愛と真理と善を追求するところに、力がわきます。勇気もそうです。
愛といってもいろいろありますが、神様からくる真実の愛、それは実は、最低のところで発揮されるもの。
シンデレラのような、誰からも見捨てられたような立場の時、それでも信じよう、愛そう、許そう、もう一度あきらめずにしてみよう、そういうところから生まれてくるものだと思います。
吹き替えだからかもしれませんが、この映画に〈神〉という言葉は1回しか出てきませんでした。ディズニー映画の限界がここかなぁと思います。
愛と勇気、この素晴らしい言葉のわいてくる源が神様です。
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最近、何かにつけ、心の中で叫びたくなる衝動にかられます。
だから、それはすべて神様が大元なのよ!と。
みんなが口々に素晴らしいものをあげたとして、そのどれも、神様に由来しないものはないのです。神様を通して考えれば、すべての謎も問題も解けていきます。
目に見えない、愛と勇気。これは、目に見えないけれど、正しいこと、良心の声に従っていくことに他なりません。
良心の声というのは、神様が私たちの心に働きかける声、といってもいいでしょう。
見えないものを信じる心、神様を信じる心が、一番ぶれることがなく、正しく、美しい、「愛と勇気」に通じていると思うのです。
信じるということを考えてみましょう。
「信」という字は、例えば「自信」と「確信」、「信頼」などの言葉を生みます。
「信じる」ということの、もっとも核心的なものは、神様への「信仰」から生まれてくるのではないでしょうか。
神様を信じることは、あまりに当たり前すぎるのかもしれません。
目に見えない空気はなくてはならない、とても大切なものです。
電気、電波、そんなものも、現代の私たちにはかけがえのない大事なものになりました。
目に見えないから、あまりに自然にそこにあるから、神様の存在に気づかないのかもしれません。無視してしまうのかもしれません。
本当に、手に届くようなところに神様がおられ、私たちを幸せに導こうとしています。
たとえ、「神はいない」などと否定する人に対しても、やはりまた親心で、幸せになる道をあきらめない神様であると思うのです。
「シンデレラ」の「愛と勇気」は信じる心から生まれた?!
(上よりタイトルを変更しました)
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