昨日は、イランに残された日本人のために、トルコの航空機が飛んでくれ、危機一髪で脱出できたという感動的なエピソードをご紹介しました。
「エルトゥールル号の借りを返しただけです」という駐日トルコ大使の言葉の意味はなんだったのでしょうか。
エルトゥールル号事件とは、明治23年(1890年)9月16日、明治天皇の親書の答礼として、オスマン・パシャ提督率いる総勢650名の使節団を乗せたトルコの軍艦エルトゥールル号が、帰路、和歌山県串本町大島の沿岸で台風により沈没してしまい、結果、オスマン提督含む587名の乗組員が死亡する惨事となったのですが、付近住民の献身的な救助により69名の乗組員を救出。後に日本海軍の巡洋艦によりトルコへ帰国したというもの。
トルコでは教科書にも載っている話で誰もが知っている歴史的事件だといいます。
トルコでは実際どれくらいの知名度かというと、上記サイトでのアンケート(2011年)では、72人が知っていると答えています。
どうも、最近は教科書には載らなくなったようで、若い人は知らない人もいたようですが、1985年当時であれば、もっと多くの人が知っていたことでしょう。
「知らない人はトルコ人じゃない」という声もあったようですから、一般常識なのは確かなようです。
ちょっと長くなりますが、もっと詳しくまとめられていたものがありましたので、紹介します。
下の動画も分かりやすいですよ。
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エルトゥールル号の遭難
エルトゥールル号の遭難
和歌山県の南端に大島がある。その島の東には灯台がある。石造りでは日本でいちばん古い。明治3年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に建っている。
びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。台風が大島を襲った。明治23年9月16日の夜であった。
午後九時ごろ、 ど、どかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(逓信技手)は、はっきりとその爆発音を聞いた。
「何か大変なことが起こらなければいいが」
灯台守は胸騒ぎがした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。
このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長76メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波のカでどんどん近づいてくる。
あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。ぐぅぐぅわーん、ばりぱり、ばりばりばり。船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。
真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。
一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。
「息子よ、起きなさい」
懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
「お母さん」
という自分の声で意識がもどった。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」
そう思うと、急にカが湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。
灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。
「あなたのお国はどこですか」
「……」
言葉が通じなかった。それで「万国信号書」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。
この当時、樫野には50軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。
だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。
村の男たちは泣いた。遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。
「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」
村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。
助かった人々は、樫野の小さいお寺などに収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。
「もう食べさせてあげる物がない」
「どうしよう!」
一人の婦人が言う。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら……」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。
このエルトゥールル号遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。
(1985年のトルコ航空による日本人救済に関しての在日トルコ大使の言葉)
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
文・のぷひろとしもり
YAHOO知恵袋より
YAHOO知恵袋より
1985年イランからの脱出に際しては、戦火の中、同じ日本人は、誰も助けに来ない、いわば見捨てられたような中を、率先して救助に向かってくれたトルコの人たちには、頭が下がります。
撃沈される恐れがある、つまり死の危険が伴う決断だったのです。
エルトゥールル号の時には、自分たちの食べ物が尽きてしまう中を(つまりは死ぬかもしれない中を)、救助した乗務員を介護し、自分たちは食べずに食べ物を与えて助けていった村人たちの姿がありました。
これが正しく「献身的」という意味になるのでしょうか。
言葉は通じなくても、その真心は通じたのですね。
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