柔軟心
やわらかいあたま
やわらかいこころ
わか竹のような
相田みつを
◇
やわらかいあたま
やわらかいこころ
わか竹のような
相田みつを
◇
人と比較してばかりで、そこで身動きできなくなりがちな私たち。
時には、そういうこまごましたところから、一旦目を離して、別の角度から見てみる、比べてばかりで悲観しやすい私たちですが、本当の私たちの姿、「いのちの価値」というものは、比べッこでは計れないのだ、という昨日までのお話でした。
さて、それぞれかけがえのない「いのちの価値」をもった私たちではありますが、人生、雨の日もあれば、風の日もある、とんでもない嵐の時もあるんですね。
ちょっとした環境の変化に右往左往する私たちです。
雨風、季節の移り変わりなどは、ある程度、準備することができます。ちょっと風邪をひいてしまっても、こじらせなければ、早めの対処ですぐ直すこともできます。
ちょっと大変なことになると、なかなか平常心ではいられない私たちです。どんな風に自分の本来の価値を保つことができるのでしょうか。
昔、播磨(兵庫県)の瓢水と言われた俳人がいたそうです。家の回船問屋が倒産して、家のシンボルであった大きな蔵が他人(ひと)手に渡ってしまいました。
その時詠んだ瓢水の句が
蔵売って日当たりのよき牡丹かな
というんです。
家が倒産して蔵がなくなってしまったということは、世間的常識で考えればみじめなことです。カッコいい話じゃありません。ところが瓢水はそう受け止めない。
蔵が有ろうと無かろうと、自分の〈いのち〉そのものの価値は少しも変わらない。むしろ、蔵が無くなって日当たりがよくなったと受け止めたんですね。
そういう瓢水の人間を慕って人が訪ねてくれる。その時あいにく瓢水は留守。
留守の者が、具合が悪くて薬を買いに行ったというと、訪問者は、「人生を達観していたと思っていたあなたが身体の具合が悪いからといって、薬などを買いに行くのか、なんだ、ガッカリした」というような言葉を残し、行ってしまう。
留守の者から事情を聞いた瓢水が、「まだ遠くへは行くまい、折角来てくれたのだから」といって一枚の短冊を書いて、追いかけさせる。その短冊の句が
浜までは海女(あま)も蓑(みの)着るしぐれかな
というんです。
これは或る本で見た話で正確なことはわかりませんが、瓢水の物を見る時の基本的な二ツの眼を語っていると思います。
牡丹の句は〈相対分別〉を離れた眼、海女の句は相対分別を離れた自分が、そのまま再び現実(相対分別)の中へ戻ってきた句です。
海女は水にぬれるのが仕事です。その海女が浜辺にゆくまでは雨(しぐれ)にぬれないようにと蓑をきてゆくというんです。人生を悟ったからといって特別な生活をするわけではありません。身体の具合が悪ければ薬も飲むんです。
こういう二ツの物の見方のできる人の心を「やわらかいこころ」といいます。
「一生感動一生青春」あるいは
相田みつをカセットシリーズ3「雨の日には…」より
相田みつをカセットシリーズ3「雨の日には…」より
破産して蔵がなくなった、それを「日当たりがよくなった」とは、なかなか言えません。大物ですね。
しかし、通常の生活は普通に営んでいく。
雨がふれば、やせ我慢して傘もささないのではなく、風邪をひけば、医者にかかり薬ももらう、当たり前のことをしていくんですね。
せこせこした小人のように見えてしまう、こまごまとした生活の一つ一つを、しっかりこなしていく。これは大きなことにも、小さなことにも、自分というものを失わずにいくということかもしれません。
全てを失うように見えることにも、悲嘆せず、かといって、小さいこともおろそかにはしない。臨機応変というのでしょうか。
自分というものを環境によって失わない。
「いのちの価値」を損なわないのです。プラス思考でもありますね。
毎日、やるべきことをやっていく、どんなお天気でも。
「やわらかい心」というのは、どんどん伸びていくんですね。
よいものを吸収し、悪いものには惑わされず…、雨にも負けず、風にも負けず…、人の評価も気にしない。そういうものに、私もなりたいです。