人間を根底から動かし、
変えていくものは、
むずかしい理屈や上から下への
威圧的な説教ではなく、
大人(親)の生き方に対する
腹の底からの感動、
納得にあると思います。
相田みつを
◇
変えていくものは、
むずかしい理屈や上から下への
威圧的な説教ではなく、
大人(親)の生き方に対する
腹の底からの感動、
納得にあると思います。
相田みつを
◇
図書館で相田みつをカセットシリーズというのを見つけて、借りました。昨日の言葉もそうですが、今日は講演文です。
相田さんの語り口を損なわないように、一部要約しながら、紹介します。
◇
おれが悪かった
「おれが悪かった。父ちゃんが悪かった。お前が悪いんじゃない、お前をそういう人間に育ててしまった父ちゃんが悪いんだ。だれのせいでもない、父ちゃんの責任だ」
少年Aは、父親の真剣な姿を見て、全身で感動し、泣き崩れたとのことです。これは講演先のホテルで聞いた、Aの父親の告白です。
Aは気が弱く友だちからの誘いを否(いや)とはいえない少年でした。ある時、仲間数人とスーパーで万引きをし、現行犯で補導されました。
Aの父は、仲間のことにはふれず、ただひたすらに
「盗みをしたのは自分の子だ。仲間の少年がどうあれ、意志強固であれば、『いやだ』といえたはずだ。それができなかったのは、そういう人間に育ててしまった父親の自分だ。要するに、今日まで自分の育て方が悪かったのだ」というのです。
私はこの父親のことばに感動しました。
こういう場合、たいていは、「友達が悪いんだ」「仲間が悪かったのだ」と、悪いことはみんな他人(ひと)のせいにするんですね。つまり、自分の責任、自分の問題として受け止めないんです。自分に都合の悪いことはすべて他人のせい、他人になすりつけてしまう。そういう親の姿勢、大人の生き方を見て育つわけですから、子供がその通りになるのはあたりまえです。だから罪の意識も反省もないんです。
Aの父親は、すべての責任を、自分の責任として、まっ正面から受け止めているんです。この父親の姿が子供のAを感動させたわけです。
私は、人間を根底から動かし、根底から変えていくものは、むずかしい理屈や上から下への威圧的な説教ではないと思います。大人(親)の生き方に対する腹の底からの感動、腹の底からの納得にあると思います。
仏教では、こういう父親の姿を懺悔(さんげ)といいます。「悪いのは自分だ」と、腹の底から悔い改めることです。懺悔がうそでないならば、つまり、ほんものならば、父親の行動が変わるんです。
この父親はどう変わったか?そこが大事。Aの父親は、その翌日から子供といっしょに毎朝五時に起きて、街の中を約4キロ走ることにしたというのです。
「お前だけに苦労はさせない、父ちゃんもいっしょに苦しむ、いっしょに走ろう!!」と、雨の日も風の日も走り続けたとのことです。街中を走っていると、事情を知っている知人にも会うことがあって、「恥ずかしい」と思うこともあったそうです。そんな時は、「子供のためには、親も恥をさらすんだ、ここがガマンのしどころだ」と、親子で歯を食いしばって走ったとのことです。
走ることは、たとえ雪の日であっても、今でも毎日続いているということです。
しかし、一度貼られてしまったレッテルというものはなかなかとれません。学校でもA少年は孤独なのだそうです。
父親は、「いつ逆戻りするか不安でなりません。これから先、どうなるでしょうか」というのです。
真剣な父親のことばに私は返答ができませんでした。
「私にはあなたを喜ばせるような、口先だけの気やすめはいえません。学校のことも、お子さんのことも私は見ておりませんので、無責任なことはいえません。先のことも私にはわかりません。ただ希望の持てることは、あなた方親子が毎朝4キロ走っているという具体的な行為、しかも、いまでも続いているという事実、その姿に期待し、ひたすら祈るだけです。継続は最大の力ですから……」と、まごころをこめていうだけでした。
相田みつをカセットシリーズ3
「雨の日には…」より
「雨の日には…」より
「悪いのは自分だ」と、腹の底から悔い改めること、これがどれだけ難しいでしょうか。
私の子供が屁理屈をつけて、「だって……なんだもん」というのを聞くにつけ、私自身の姿が投影されているようで、反省させられます。
子供が、一人前の大人として責任を負えるようになるかは、わたし自身が、責任を持っていく姿をどれだけ見せられるか、ですね。
身につまされますが、覚悟の弱い私です。
※相田みつをさんに関しては、新しいカテゴリーを作りました。
相田さんの言葉は、このカテゴリーに入りきれず、ほかのカテゴリーの記事にも引用されています。
彼の言葉のみの記事を分類しましたので、ご了承ください。