さあ夢を叶えましょう

無料カウンセリング
を募っています。詳しくはこちら
まずは記事にコメントをお寄せくださるか
あるいは→のファンより
メッセージをお寄せください
お待ちしています

2012年05月22日

932年ぶり?! 安倍清明以来の広範囲の金環日食【写真特集】写真追加


2012.05.21 和泉川 日食


人生の節目となる瞬間は、
自分ではそれとわからない。


映画『フィールド・オブ・ドリームス』




8975868.jpg  kimage_for_msafari.jpg
  
k8974921.jpg  k8975407.jpg



まさか932年ぶりのことだとは、思ってもいませんでした。

下の子どもたちが運動会の代休だったので、中学の部活の朝練に行くお兄ちゃんと、眼鏡を半分に切ってそれぞれ楽しみました。朝練は土手まで走る行き帰りだけで後は日食の観測に終始したようですが…。

932年ぶりといえば、平安時代ですね。ピンときました。これは安倍清明(あべのせいめい)の時のアレではないかと。

975年8月10日(旧暦7月1日)、安倍清明は日食を予言(というか)計算で割り出し、帝以下、その時を待って観測したといいます。他の官職の人たちは皆謹慎してその時を過ごし、天の怒りを怖れて大赦もなされたということです。
陰陽師というと、なんとなくおどろおどろしいイメージがありますが、天文学に通じたその頃の最高の科学者でもありました。
コンピューターなどない時代、すべて自分たちで割り出したのですから、すごいですね。
帝は清明の進言に従って、天の怒りを回避するため諸々の処置を効じました。

清明か彼の部署が出したと思われるその時の記録が、日本最古の日食の記録です。
「空が墨のように暗くなり、多数の星が増え、鳥が乱れ飛んだ」とあり、日食の範囲は、中国・近畿・中部・関東まで広い範囲にわたり、西は中国、東はハワイまで伸びていたということです。

auntitled.jpg


1000年近く前に起こったのと同じ歴史的な出来事に遭遇した私たちだったわけですね。
中学の朝練が日食観測になってしまうくらいで、大盛り上がりの日本中だったのではないでしょうか。
息子の友人は、932年振りの出来事ということは本当に稀のことであり、今この瞬間に観測できたことが感動だと言っていたそうですが、確かにこの時代に生れて、その瞬間に立ち会えたと思えば、すごいことですね。

平安の頃にあった天体ショーが、また再び繰り返され、また一分の狂いもなしに、この瞬間も宇宙は動き続けています。その法則性ゆえに、平安の頃にもそれを予め予測することができたのです。
自然、宇宙というものの営みに、神秘を感じてしまうのです。


今日もいい一日を

よろしかったらクリックを
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村
トップ写真は:日食
by (C)ひでわくさん
画像あるいはタイトルクリックで写真のページへ
撮影者の名前をクリックすると撮影者のページへリンク
撮影者に許可を得て使用しています
無断転用はご容赦願います



2012年05月21日

すべてを失った時にどうするか?!「やわらかいこころ」2《相田みつをの言葉》


若芽。


柔軟心
やわらかいあたま
やわらかいこころ
わか竹のような


相田みつを



vol_pict01.jpg


人と比較してばかりで、そこで身動きできなくなりがちな私たち。
時には、そういうこまごましたところから、一旦目を離して、別の角度から見てみる、比べてばかりで悲観しやすい私たちですが、本当の私たちの姿、「いのちの価値」というものは、比べッこでは計れないのだ、という昨日までのお話でした。

さて、それぞれかけがえのない「いのちの価値」をもった私たちではありますが、人生、雨の日もあれば、風の日もある、とんでもない嵐の時もあるんですね。
ちょっとした環境の変化に右往左往する私たちです。

雨風、季節の移り変わりなどは、ある程度、準備することができます。ちょっと風邪をひいてしまっても、こじらせなければ、早めの対処ですぐ直すこともできます。
ちょっと大変なことになると、なかなか平常心ではいられない私たちです。どんな風に自分の本来の価値を保つことができるのでしょうか。

昔、播磨(兵庫県)の瓢水と言われた俳人がいたそうです。家の回船問屋が倒産して、家のシンボルであった大きな蔵が他人(ひと)手に渡ってしまいました。
その時詠んだ瓢水の句が

  蔵売って日当たりのよき牡丹かな

というんです。

家が倒産して蔵がなくなってしまったということは、世間的常識で考えればみじめなことです。カッコいい話じゃありません。ところが瓢水はそう受け止めない。
蔵が有ろうと無かろうと、自分の〈いのち〉そのものの価値は少しも変わらない。むしろ、蔵が無くなって日当たりがよくなったと受け止めたんですね。

そういう瓢水の人間を慕って人が訪ねてくれる。その時あいにく瓢水は留守。
留守の者が、具合が悪くて薬を買いに行ったというと、訪問者は、「人生を達観していたと思っていたあなたが身体の具合が悪いからといって、薬などを買いに行くのか、なんだ、ガッカリした」というような言葉を残し、行ってしまう。
留守の者から事情を聞いた瓢水が、「まだ遠くへは行くまい、折角来てくれたのだから」といって一枚の短冊を書いて、追いかけさせる。その短冊の句が

  浜までは海女(あま)も蓑(みの)着るしぐれかな

というんです。

これは或る本で見た話で正確なことはわかりませんが、瓢水の物を見る時の基本的な二ツの眼を語っていると思います。

牡丹の句は〈相対分別〉を離れた眼、海女の句は相対分別を離れた自分が、そのまま再び現実(相対分別)の中へ戻ってきた句です。
海女は水にぬれるのが仕事です。その海女が浜辺にゆくまでは雨(しぐれ)にぬれないようにと蓑をきてゆくというんです。人生を悟ったからといって特別な生活をするわけではありません。身体の具合が悪ければ薬も飲むんです。

こういう二ツの物の見方のできる人の心を「やわらかいこころ」といいます。
「一生感動一生青春」あるいは
相田みつをカセットシリーズ3「雨の日には…」より


破産して蔵がなくなった、それを「日当たりがよくなった」とは、なかなか言えません。大物ですね。

しかし、通常の生活は普通に営んでいく。
雨がふれば、やせ我慢して傘もささないのではなく、風邪をひけば、医者にかかり薬ももらう、当たり前のことをしていくんですね。
せこせこした小人のように見えてしまう、こまごまとした生活の一つ一つを、しっかりこなしていく。これは大きなことにも、小さなことにも、自分というものを失わずにいくということかもしれません。

全てを失うように見えることにも、悲嘆せず、かといって、小さいこともおろそかにはしない。臨機応変というのでしょうか。
自分というものを環境によって失わない。
「いのちの価値」を損なわないのです。プラス思考でもありますね。

毎日、やるべきことをやっていく、どんなお天気でも。
「やわらかい心」というのは、どんどん伸びていくんですね。
よいものを吸収し、悪いものには惑わされず…、雨にも負けず、風にも負けず…、人の評価も気にしない。そういうものに、私もなりたいです。


今日もいい一日を

よろしかったらクリックを
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村
写真は:若芽。
by (C)芥川千景さん
画像あるいはタイトルクリックで写真のページへ
撮影者の名前をクリックすると撮影者のページへリンク
撮影者に許可を得て使用しています
無断転用はご容赦願います

相田みつをカセットシリーズ3
「雨の日には…」
朗読 渡辺裕之
  000250.jpg



posted by kuri-ma at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 相田みつをの言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月20日

へんな比べッこはしない?!「やわらかいこころ」1《相田みつをの言葉》


目立ちたがり屋さん。


比べる相手によって
自分につけられる点数は変わるということ。
変わるということは、
この点数は当てにならぬということ。


相田みつを



私たちの心って、けっこう意固地になりやすかったり、ゆがんだり、無理したり、「やわらかい心」にはほど遠い気がします。
それは、いつでもしなくてもいい「比べッこ」をしているからだと相田みつをさんは言います。人との比較、何かへのこだわり、捨てたら楽なものを切り捨てられない私たちです。
「相対分別」という聞きなれない言葉は出てきますが、そうだなぁ、ふむふむと、きっと納得できると思います。


わたし達が何かを考える時、又判断をする時、必ずついてまわるものは何か?
それはいつでも他人との比較、他人との比べッこです。自分のもっているものと、他人の持っているものと比べてね、どっちがいいとか悪いとか、どちらが得でどちらが損か、などと比べて判断してますね。
この場合の〈もの〉とは物質的なお金や品物ばかりではありません。学歴や肩書、社会的地位等、精神的なもの一切を含めての〈もの〉です。

わたし達が、何かの価値判断をする時には、必ずこのような比べッこをして、決めているわけです。
このようにAとBとを二ツ並べて比べることを〈相対分別〉といいます。
二ツのものを対立させて、どっちがいいとか悪いとか分けることです。〈分〉も〈別〉も共に分けることです。私達はいつもこのような〈相対分別〉の中を生きているのです。

いわゆる人間の知識と呼ばれるものはすべてこの〈相対分別〉です。自分とだれかと比べッこして、自分の方がよければいい気になってのぼせたり、悪ければ落ち込んでノイローゼになったりするんです。それが大方の人間の現実生活なんです。
わたしはそういう現実生活を単純に否定するものではありません。それが現実ですから。

ただここで一ツしっかりと考えてもらいたいことは、相対分別ですから、比べる相手によって自分につけられる点数は変わるということ。変わるということは、この点数は当てにならぬということ。当てにならぬということは〈絶対〉のものではないということです。

そこで又、考えてもらいたいことは、
「だれとも比べるない時の自分とは何か?」ということです。
つまり、はだかの人間としての〈自分〉というものを一度しっかりと見直して欲しいということです。
ここで結論を一ツ出しますが、だれとも比べない時の自分には、善いとか悪いとか、80点とか30点とか、金が有るとか無いとか、という人間の作った評価は一切つけられない、ということです。入学試験に合格しようが落ちようが、人間の根源的な〈いのち〉そのものの価値は少しも変わらないということです。
ここのところを先ずしっかりと押さえて欲しい。それが物を見る時の大事な原点の一ツ。

そこをしっかりと押さえた上で、もう一度、現実の比べッこの世界に自分を戻して下さい。すると現実の自分には様々な点数、評価がつきます。

  学歴は〇〇大学卒業
  肩書は〇〇会社の係長
  給料は〇〇円

等々沢山の点数や評価がつきます。

しかし、どんな点数、どんな評価が自分についても、それはどこまでも人間の知識で作った相対分別的な点数、評価であって〈自分〉の〈いのち〉そのものの価値とは全く別だということを知って欲しいということです。
そこをしっかりと押さえた上で月給が上がったら素直に喜んでビールで乾杯すればいいんです。
「一生感動一生青春」あるいは
相田みつをカセットシリーズ3「雨の日には…」より


比べッこしても、自分の本来持つ「いのちの価値」は変わらない。その誰にも変えられない「いのちの価値」を見つけて、それを大切にしていく。
自分にも、家族にも、比べッこ、比較ばかりでは一番大切なその人の価値を見失い、伸ばせないということになるんでしょう。

この後もまた「相対分別」のお話をされながら、「やわらかいこころ」に行き着く後半のお話に続きます。


今日もいい一日を

よろしかったらクリックを
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村
写真は:目立ちたがり屋さん。
by (C)芥川千景さん
画像あるいはタイトルクリックで写真のページへ
撮影者の名前をクリックすると撮影者のページへリンク
撮影者に許可を得て使用しています
無断転用はご容赦願います

相田みつをカセットシリーズ3
「雨の日には…」
朗読 渡辺裕之
  000250.jpg



posted by kuri-ma at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 相田みつをの言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする