「知」よりも「行」。
その行は、いつどこでやるのか?
「いま」、「ここ」。やるのは自分。
相田みつを
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その行は、いつどこでやるのか?
「いま」、「ここ」。やるのは自分。
相田みつを
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学ぶことも大事だけれど、知識よりも行(ぎょう)を大切だというのが、禅の教えなのだとか。確かに思いだけは壮大でも、実行しなければただの夢想になってしまいます。
「まず、やってみよう」若い人にこそ、伝えたい内容ですね。
若くない人も、「まず、動いてみよう」ですか。
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相田みつをさんの講演からの抜粋です。
若き日の道元禅師が、今の中国、そのころの宋の国の禅院で修業していたときの話です。
あるとき青年道元が禅の道場で古人の語録を読んでいたんですね。語録というのは先人の言行録です。すると、四川省からきていた力量のある先輩の僧が、それを見て道元に質問するんです。
「語録を見てどうするんだ?」
「はい、古人の生き方を学ぼうと思います」
僧はすぐ「それでどうするんだ?」と追求してきます。
「はい、郷里(日本)へ帰って人を教化(きょうけ)しようと思います」
道元が答えると、僧はさらに、「それでどうするんだ?」と追求の手をゆるめません。
道元は「はい利生(りしょう)のためです」と答える。「利生」というのは、人に利益を与えることですね。僧はさらに問い詰めてきます。
「畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ?」
― ぎりぎりの決着のところ、究極のところ、それが何の役に立つのか? ― と。
「畢竟」ということばは、禅の問答にはよく出てきます。「畢竟して如何(いかん)?」などといって、要するにとか、結論として、という意味です。
禅の問答では、いつでも前置きは抜きです。ずばり最後の結論だけを端的に聞かれます。お役所の答弁のように、くどくどといいわけや弁解をしてその場をうまく通り抜けるのとは、まったく正反対です。しかも、最も短いことばでね。問答は「畢竟して何の用ぞ」で終わります。
原文を紹介しておきます。
「一日示して云(いわ)く、吾れ在宋の時、禅院にして古人の語録を見し時、ある西川(さいせん)の僧、道者に有りしが、我に問(とう)て云く、語録を見てなにの用ぞ。答えて云く、古人の行李(あんり)を知らん。僧の云く、何の用ぞ。云く、郷里にかえりて人を化(け)せん。僧の云く、何の用ぞ。云く、利生のためなり。僧の云く、畢竟して何のようぞと。(後略)」(『正法眼蔵随聞記』岩波文庫)
原文には「何の用ぞ」「何の用ぞ」と何回も出てきます。そして「畢竟して何の用ぞ」でこの問答は終わります。
四川省からきた僧は、語録を読んでいた青年道元に対して、「ううん、よく勉強しているな」とか「うん、感心な若者だ」なんて甘いことばは一つもかけてくれないんです。それどころか、道元の答えるものすべてを否定してしまうんですね。
つまり、全面否定。この問答の中で何を教えようとしたのか?語録を読むということは禅(仏法)の知的理解ですね。「何の用ぞ」のくり返しはそれを否定しているんです。「それじゃダメだ」というわけです。禅は知よりも行。
その行は、いつどこでやるのか?いま、ここ。やるのは自分。
私はこれを読んで「ううん」と唸りました。そして悩みました。悩みぬきました。これは八百年前の遠い昔の道元禅師の話ではない。
「何の用ぞ?」「何の用ぞ?」の問いかけの相手は、この自分だ。これは、いま、ここの自分の問題だ、と考えたのです。
「自分のやっていることはなんだ?」
若いころから、師と仰ぐ方の影響で、相田みつをさんは禅宗を学んでいました。
家庭を持ってその生活を支える中、一大決心して、生前書かれていたような、相田さんならではの本音を表現する書を書かれるようになったのだそうです。
簡単な決意ではなかったと思います。その悩んだ部分は省略してしまいましたが…。
どんなに素晴らしい言葉も自分に響かなければ意味がありません。
今、自分が実行するのです、ね。(なかなか腰の重いわたくしではあります。。。)
ラベル:相田みつを