「臂(あいさつ)を交わせば、
故(むかし)にあらず」
(二人の人が手をとりあってあいさつをして顔を上げた時、
ふたりはすでに先ほどのふたりではない)
荘子
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故(むかし)にあらず」
(二人の人が手をとりあってあいさつをして顔を上げた時、
ふたりはすでに先ほどのふたりではない)
荘子
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挨拶という言葉に「臂」という字を使っていますが、私もこの辺りの教養は皆無なので、調べてみますと、「ひじ」のことなんですね。ひじと挨拶はどんな関係があるのか???
「剋臂(ひじにこくす)」という言葉は、ひじに刻みつけておく、つまり固く約束するという意味だということですから、臂(ひじ)というのは、何か特別な意味を感じますね。
日本では「膝を交える」という場合に、打ち解けるという意味で使いますが、ひじとひざでは違いますね。
「肘鉄」という使い方もありますが…。
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人は人から一番影響を受けるものだと思います。
人から生まれ、愛され、愛し、関わって、助け、助けられ、力を得て、なぜか今この瞬間、生きている私たちです。
人間社会にいやな事を探すことは簡単ですが、逆によい部分を探すのは、難しいかもしれません。
でも、なぜか目の前にいるこの人。なんらかの縁があって、目の前にいるのでしょう。
目の前にいる人に、目障りだから消えろ、と言っても、縁のある人とは、また会うものです。
どうせなら、その縁を受け入れるなら、腐れ縁の悪縁、と思っていたものも、必ずしもそうではなくなることもありますね。
受け入れがたいことを受け入れると、私たちの縁もよいものに変わっていくようです。
そして、挨拶、またなんらかの行為というものは、何気なく出来そうな簡単なものなのに、パワーを持っているんですね。たった一言交わした言葉が、新しい関係へと、発展していくことになります。
逆に売り言葉に買い言葉、どちらかの手が出れば、もうひとりの足も出る、というように、悪い関係に発展してしまうきっかけになることもあります。
握手を交わす時、言葉を掛け合う時、すでにその人との関係は、それだけの絆が生まれています。
よい影響を与え合う関係でありたいですね。
実はこの荘子の言葉と解釈は、韓流の歴史小説から抜粋したものです。
日本も昔は儒教をよく学んで、学のある人ほど、それらを会話の端にも引用しまくったんでしょうね。
日本の私たちの文化にも染み込んでいる部分もありますが、大半は廃れてきてしまって、漢文や儒学を身につけた教養人はめっきり少なくなっているのではないでしょうか。
韓国は日本よりも、こういうものが基本的な教養として残っているようですね。
この小説はドラマ化もされたものの原作小説で、この言葉が出る部分は、派閥争いを憂える男性の台詞なのですが、引用部分を抜粋します。↓
「…『荘子』に、『臂(あいさつ)を交わせば、故(むかし)にあらず』という言葉があります。二人の人が手をとりあってあいさつをして顔を上げた時、ふたりはすでに先ほどのふたりではない、と。…」チョン・ウングォル著「成均館(ソンギュンガン)儒生たちの日々」より