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2012年04月21日

6歳少女学校で大暴れ、警察が手錠でまた大騒動?!他《教育関連のニュース》


キャッホー!!


子供を父や母に結び付けていた絆は
決して切れることはないけれど、
それは緩むのである。


トーマス・エドワード・ロレンス
(アラビアのロレンスのモデルと言われる人)













教育関係のニュース記事を集めてみました。

少し、気になることを。
トップの手錠を掛けられた6歳少女のニュース。
確かに手錠を掛けて警察に連れて行ったこと事態は、問題だったかもしれません。
しかし、そもそもこの少女は、学校で大暴れしているのです。それを学校側はどうすることもできず、警察を呼んだわけです。
どうして、何があって大暴れしたのか、このニュースでは触れていませんが、誰も鎮められなかったのだとしたら、この子、かなり問題児なのではないでしょうか。

なんで、この子がこういう行動をしたか、ということを考えた時、学校側がもうちょっと上手に気を静めてあげれたんじゃないか、とか、まだ1年生の女の子が、手錠をかけられるなんてショックだろう、という考えもできますが、掲載されている叔母と母親のコメントを見て、私の中では、問題児であるという疑いが濃厚になりました。あるいは、家庭に問題あり、と。

親のコメントも一部しか掲載していいないので、他の部分で言ったのかもしれませんが、子どもがしでかしたことに対して「申し訳ありません」という言葉はあったのでしょうか。

「娘は日によって機嫌が悪いこともあります。誰だってそうでしょう。あの日は娘にとってたまたま嫌な日だっただけだと思います」という母親の発言が平謝りに謝った後のものなら、理解できるのですが、そうでない、という印象プンプンのニュース記事なのです。
子どもがただ被害者のようにしか言っていないように聞こえるコメントの掲載ですよね。

たとえば、この子が虫のいどころが悪かったとして、そこまでひどいことをするのは、家庭の問題もあるはずです。悪いことをしたら、「ごめんなさい」と謝る、それを6歳の子に教えるなら、親も「お騒がせしました」の一言は必要でしょう。

もともと娘が暴れたために警察も動いたというのに、何かひとつの落ち度を見つけると、その大前提の娘の非をどこかにやってしまって、警察を責める。これ、おかしくないでしょうか。責めてもいいですが、娘の非を認めないとしたら、おかしい。なんか、おかしい。気持ちが悪いです。

この子は、悪いことをしたという自覚が持てないではないですか。
この少女から「ごめんなさい」という機会を親が奪ってる。もっと問題児になります。
悪かったらおしおきくらい必要、だと思いますね。

もちろん、手錠はまずかったでしょう、と思いますが…。(少しだけのつもりが、長くなりました。)

 


二番目に掲載した、イギリスの二人の青年のニュース(動画)は、一転、さわやかなニュースです。 
イギリスでは大学の学費が大幅に値上がりしていて、彼らも膨大な学費の負債がありました。一方、若者の失業率は22%、就職難でした。
そこで考えたのが、自分たちの顔をペインティングし、広告に使ってもらおうというもの。どこでも、出向いていく旺盛さで、今では引っ張りだこになっているようですね。

学費の高騰に反対のデモなどが行われたりする中、彼らは、誰かに文句を言うのではなく、資本もないからと、自分たちの体を使い、ユニークなアイデアで、とにかくやれることはやれろうと行動していったところが、とても好印象です。

他のニュースも興味深い内容が多いですので、見てみてください。


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posted by kuri-ma at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月20日

49日の過ごし方?! 《霊界ってあるんでしょうか6》

☆この記事より
さらに読みやすく再編集しました!
  こちら をどうぞ☆

2012.04.19 横浜公園 チューリップ ナイスキャッチ


宣言して始めたものの、しばらくお休み状態だったこの「霊界あるある」ならぬ、「霊界ってあるんでしょうか」シリーズ。次には「神さま…」も控えていますから、またボチボチ再開しなければなりませんね。

昨年11月に父が入院してから、あっという間にあの世に旅立ってしまい、今まで親戚などは数知れなく見送っていますが、姑以来、近い肉親で初めてともいえるものでした。49日なども無事済ませました。(それからもかなり経っているのですが…。)ちょっと身内のこととなると、客観的に語るのが、白々しいということもありまして…。

人が亡くなってからよく仏教では49日と呼ばれる期間があります。私の母の実家の方では、35日で法要することも多いのですが、地域などによっても、この期間は少し幅があるようです。
40日前後、ということになりますね。

私も経験して感じるのですが、この40日の期間というのは、とても特別なものです。
まだどこか亡くなった実感がなくて、実家で家族が集まっていると、まだ父がいるような気がしたり、こういう時はこんなことを言うだろうなと、想像してしまうのです。この頃、実際近くにいると感じる人も多いようです。

遺族にとっても40日ないし49日は、送ってあげながら、身辺を整理してあげ、また気持ちも整理していく、大切な期間ですが、亡くなった人にとっても大切な期間のようです。

以前、亡くなってから、三途の川(境界線)を越えて行くというお話をしました。死にかけて蘇ったような人は、そこを渡り切る前、ボーダーを越える前に引き返してきたといいます。
そして、その川を渡り切った向こう岸が、あの世、霊界というわけです。

49日までの期間は、あの世に渡った魂が、あの世の生活をスタートする準備期間です。すでに、2つの質問や走馬灯というフラッシュバックなどを通して試験はほぼ済んでいるのですが、あの世は、その人の魂がふさわしい所に行って初めて本当のスタートとなります。

亡くなったばかりの人は、初めて行くあの世と、自分の状況に戸惑っています。
残された家族や友人などが、その49日の期間、その人との思い出を語り合ったり、心のこもった送り方をしてあげるのが、亡くなった方を慰め励ますことになります。つい、つもり積もった恨み言や、悪口を言ったりするのは、できるだけ控えてあげたいですね。(聞いてますよ。)

供養、供養といいますが、どんなに立派な法要をするかよりも、悲しい気持ちを抑えて、できるだけ明るく話しかけるようにしてあげるのが一番かなぁと思います。

霊界にはその人が生前、あの世での生活のために準備した家があるといいます。そこを探しに行くのです。中には家らしい所がない、監獄よりひどい所に行かなければならない魂もいるようですが…。
魂というと日本語では「ある」というのが正しい言い方かもしれませんが、魂というのは、霊人のことなので、あえて「いる」と表現してみました。

亡くなった人は、(この世では)目には見えない魂の状態、霊人の姿で、自分の家、あの世での自分の安住の地を探し始めます。
というより、磁石で引き寄せられるように、その場所に行かざるを得なくなるといいます。

あの世というのは、実に様々な場所があるのだということです。
霊人たちは最初は皆、明るく光の差す、暖かく、芳しい香りがどこともなく漂う、例えようもなく美しい所にいざなわれると言います。

しかし、そこには誰しも長居できるわけではありません。
そこはあまりに眩しいくらいに明るく、自分の姿が恥ずかしくなる人が大半だということです。
中には自分に染み付いた悪臭に居たたまれなさを感じる人もいると言います。

みんながみんな、霊人たちは自分にふさわしい場所に行くのだそうです。誰が命令したり、示したりしたしたわけではなく、皆、本人自身が決めるのだということです。
当人としては、少しでもいい場所に留まりたいはずですが、なかなかそうもいかないようです。
というのも、あの世は、生きている時は肉眼では見ることのできなかった心が、包み隠さず見えてしまうのだそうです。

この世では、きれいな服を着たり、きれいに化粧をしたり、整形することも可能ですし、上手に演技したり、嘘で言い繕うこともできましたが、あの世では自分を覆ったり隠してくれるものは何もないのだそうです。どのようにしても、本性が丸見え、丸出し状態になってしまうということです。

そして、40日、49日の間に、自分の心根、性根、というものの通りになった霊の体を抱えながら、むき出しになったものを、直すことも隠すこともできずに、ふさわしい霊界の位置、あの世の住処に行くことになる、ということです。

この40日を過ぎると、亡くなった人たちは、ふさわしい場所で、新しい生活をスタートしていきます。これ以後は、中には不自由な環境の霊人も少なくないようですし、いつでもどこでも私たちの所に来てくれるというわけにはいかなくなってしまうようです。
命日とか、お彼岸には帰って来れるといいますね。

どうも、霊人によって、あの世での暮らしはかなり異なるようです。私たちが亡くなった大切な方々を供養するのは、その人を思う愛情ゆえではないでしょうか。よい供養、正しい供養というのは、方法より、いかに愛してあげるか、ということなのです。
そのためには、亡くなった方たちがあの世のどのような場所にどんな状態でいるのか、ということをまず知ることが必要です。

今後、あの世、霊界はどんな所なのか、お話していきます。いわゆる、天国とか極楽というもの、地獄というものについても、お話していきます。

今日もいい一日を

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2012年04月19日

「今ここで、やるのは自分」?! 相田みつをの人生を変えた道元の言葉


紫花菜


「知」よりも「行」。
その行は、いつどこでやるのか?
「いま」、「ここ」。やるのは自分。


相田みつを


学ぶことも大事だけれど、知識よりも行(ぎょう)を大切だというのが、禅の教えなのだとか。確かに思いだけは壮大でも、実行しなければただの夢想になってしまいます。

「まず、やってみよう」若い人にこそ、伝えたい内容ですね。
若くない人も、「まず、動いてみよう」ですか。


相田みつをさんの講演からの抜粋です。

若き日の道元禅師が、今の中国、そのころの宋の国の禅院で修業していたときの話です。

あるとき青年道元が禅の道場で古人の語録を読んでいたんですね。語録というのは先人の言行録です。すると、四川省からきていた力量のある先輩の僧が、それを見て道元に質問するんです。
「語録を見てどうするんだ?」
「はい、古人の生き方を学ぼうと思います」
僧はすぐ「それでどうするんだ?」と追求してきます。
「はい、郷里(日本)へ帰って人を教化(きょうけ)しようと思います」
道元が答えると、僧はさらに、「それでどうするんだ?」と追求の手をゆるめません。
道元は「はい利生(りしょう)のためです」と答える。「利生」というのは、人に利益を与えることですね。僧はさらに問い詰めてきます。

「畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ?」
― ぎりぎりの決着のところ、究極のところ、それが何の役に立つのか? ― と。
「畢竟」ということばは、禅の問答にはよく出てきます。「畢竟して如何(いかん)?」などといって、要するにとか、結論として、という意味です。
禅の問答では、いつでも前置きは抜きです。ずばり最後の結論だけを端的に聞かれます。お役所の答弁のように、くどくどといいわけや弁解をしてその場をうまく通り抜けるのとは、まったく正反対です。しかも、最も短いことばでね。問答は「畢竟して何の用ぞ」で終わります。

原文を紹介しておきます。

「一日示して云(いわ)く、吾れ在宋の時、禅院にして古人の語録を見し時、ある西川(さいせん)の僧、道者に有りしが、我に問(とう)て云く、語録を見てなにの用ぞ。答えて云く、古人の行李(あんり)を知らん。僧の云く、何の用ぞ。云く、郷里にかえりて人を化(け)せん。僧の云く、何の用ぞ。云く、利生のためなり。僧の云く、畢竟して何のようぞと。(後略)」
(『正法眼蔵随聞記』岩波文庫)


原文には「何の用ぞ」「何の用ぞ」と何回も出てきます。そして「畢竟して何の用ぞ」でこの問答は終わります。

四川省からきた僧は、語録を読んでいた青年道元に対して、「ううん、よく勉強しているな」とか「うん、感心な若者だ」なんて甘いことばは一つもかけてくれないんです。それどころか、道元の答えるものすべてを否定してしまうんですね。

つまり、全面否定。この問答の中で何を教えようとしたのか?語録を読むということは禅(仏法)の知的理解ですね。「何の用ぞ」のくり返しはそれを否定しているんです。「それじゃダメだ」というわけです。禅はよりも
その行は、いつどこでやるのか?いまここ。やるのは自分。

私はこれを読んで「ううん」と唸りました。そして悩みました。悩みぬきました。これは八百年前の遠い昔の道元禅師の話ではない。
「何の用ぞ?」「何の用ぞ?」の問いかけの相手は、この自分だ。これは、いま、ここの自分の問題だ、と考えたのです。
「自分のやっていることはなんだ?」


若いころから、師と仰ぐ方の影響で、相田みつをさんは禅宗を学んでいました。
家庭を持ってその生活を支える中、一大決心して、生前書かれていたような、相田さんならではの本音を表現する書を書かれるようになったのだそうです。
簡単な決意ではなかったと思います。その悩んだ部分は省略してしまいましたが…。

どんなに素晴らしい言葉も自分に響かなければ意味がありません。
今、自分が実行するのです、ね。(なかなか腰の重いわたくしではあります。。。)


今日もいい一日を

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ラベル:相田みつを
posted by kuri-ma at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 相田みつをの言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする