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2011年08月02日

どうして不幸に巻き込まれるのか?!〜中国・インドの列車事故に考える


7月の総棚ざらい。




高速鉄道事故、中国当局が新たな報道規制
国際ニュースAFPBB
最後の生存者となった2歳の少女の写真も。
(両親はこの後死亡が確認された)



中国の列車事故についで、列車の事故が相次いでいるインドで、また大きな事故が起こりました。
中国の事故でも、事故後の不手際が散々批判されていますが、インドの事故も迅速な救出がされているかどうか…。
ノルウェーの事件でも、警察の不手際が大きな批判の的になっています。

起こってしまったことは今更仕方がないけれど、もっと早く多くの人が救出されたかもしれない、と思うと亡くなった方たちの遺族は、さぞかし複雑でしょう。
大切な家族が、死に至った時、そういう巡り会わせだった仕方がない、とすぐにあきらめることができる状況ならば、辛くても受け入れざるを得ませんが、もしかしたら助かったかもしれないのに…、という要素があれば、不手際のあった警察なりを責めたい気にもなるでしょう。

どうして不幸に巻き込まれたのでしょうか。もっと前の列車に乗っていれば、救出に2日もかからなければ、2歳の女の子は両親を失うことはなかったかもしれないのに…、〇〇だったのに…というのは、本当につい考えてしまうことです。
もしも、ということは過去のことについては特に、考えすぎない方がいいのです。英語でいう「仮定法過去」ですね。事実とは反対のこと、あるいは実現不可能・困難な願望に過ぎません。

どうして不幸に巻き込まれたのか、ということは考えてもしかたのないことなんですね。(タイトルにしておきながら、すみません。)辛い中ですが、犠牲者をよく送り出してあげるためにも、「言ってもせんないこと(仕方がないこと)」は言わずに、お亡くなりになった方に対しては、ご冥福をお祈りすることがいいと思うのです。

さて、不幸に巻き込まれた方の中でも、幸いにも助かった人のことを考えてみると、偶然運よく助かったというのですが、やはり運勢が強いんでしょう。九死に一生を得た人の話を聞くと、まさしく死と隣り合わせのところで、神様に祈った、大切な家族のことを考えたといいます。
神様は平等なはずなのに、同じ事故に遭っても犠牲になる人と助かる人がいます。理不尽だといいますが、本当は一人の犠牲者も出したくないのは、神様の気持ちなのではないでしょうか。
悪いことをするから、人は死ぬのではなく、人から惜しまれる人でもいずれは死の時を迎えます。
事故や事件で亡くなる人も、若い人もいれば年を召された方もいます。(ウトヤ島では若者でしたが…。)いい人もいれば、そんなにそうでもない人もいたかもしれません。

今回の事故には巻き込まれなかったとしても、いつか私たちには「死」はやってきます。それを「不幸」と呼ぶのか、なんと呼ぶのかは残った人たちの判断ですが、本当に不幸な死なのかどうかは、私たちに掛かっています。

昔ある人が、身内の不幸を悲しみ、お釈迦様に談判したそうです。「死人をを出したことがない家がひとつでもあれば、生き返らせてあげよう」と言われてその人は必死で家々を回りますが、当然死んだ人のない家はありませんでした。どんな家にも不幸はあるのです。

理不尽な死であったとしても、それを「殉職」のような死にすることもできます。残された人が、亡くなった人の生き方を称えて偲んであげれるのが、よいことです。当然、その人の生前の生き方次第では、「無理」ということもあるかもしれませんが…。

一度に多くの犠牲者が出た時、胸が痛くてたまりません。無念な思いを持って亡くなっていく人が多いと思うからです。こういう時、多くの自爆霊が出るのではないかと思います。

私たちの真価が表れるのは「死ぬ時」ではないでしょうか。「死んだ直後」ともいえるでしょうか。いつかは迎える「死」ですが、死んだらなくなるとか考えていると突然の死であればよけいに理解できません。永遠に生きるべき霊界で、自分の行くべき場所もわからずに、彷徨ってしまいます。
亡くなったら、自然に「いい所」に行けると考えている人もいるかもしれませんが、そんな簡単ではないでしょう。
イザという時に、しっかりお迎えにきてもらわなければ、いい所にはいけません。先祖に供養をしてきているから、ということももちろん大切ですが、ご先祖があまりお迎えにも来れないような立場の(地獄のような所にいる)人では、あの世に行っても、途方にくれるでしょうね。確実にあの世で手を引いてくれる尊敬すべき人、お釈迦様やキリストやその弟子レベルの人がツテでいればいいのですが…。
一生懸命生きて、思わぬ方のお迎えが来るような、オツな人生にしたいと思うのです。

私も先月身内に不幸がありました。
喪主となった従兄は、49日までの間、こうやってお供えをするのだと、セレモニーの担当の人にじっくり説明を受けていました。それまでは供養ということをしたことがほとんどなかったと思うのですが、毎日のお供えの仕方を聞き、また法事の件ではわからないことを、お寺に聞きにいっていました。人の情として、大切な人は、しっかり送ってあげたいと思うのですね。
そして、一家の大黒柱が本来こういう祭事や仏事の責任を持つ立場ですから、喪主を務め一連の行事をこなしていくと、家運がしっかり立つのです。従兄も、ぐっと男前があがり、頼もしくなったように見えました。親の死を越えて、しっかり送ってあげようとすることは、亡くなった方も喜ぶし、家の家運をあげることになります。
どんなお金を掛けたお葬式をしたかではありません。その送る人たちの心が問題だと思います。
従兄の子供たち、故人には孫になる子どもたちが、葬儀でお祖母ちゃんのことに感謝する手紙を読み上げてくれたんですが、とても感動的でした。孫たちにあんな風に言われて送られたら幸せでしょう。いいお葬式だった、という数少ない感動的なお葬式でした。

幸せな死に方というのは、死んでからの霊界ライフというのが重要です。病気であれ事故であれ、どうして今…、と思ってもいずれ私たちは死ななければなりません。
それが突然の死であったとしても、準備していたようにさっと逝きたいと私は考えてはいるのですが、できることなら、孫たちに囲まれて惜しまれながら、また少しは思い出してもらえたら、幸せになれる生き方ができたといえるのではないかと思うのです。


今日もいい一日を
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写真は:7月の総棚ざらい。
(C)芥川千景さん
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