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2011年05月25日

作家・辺見庸「瓦礫の中から言葉を?!」インタビュー全文


2009.06.27 日比谷公園 アカツメクサ.jpg


自分たちが、あるいは失われた命が、
世界のどういう位置にいるのかということを
分からせてくれる言葉を発することができれば、
もっと人の魂、今生きている魂、
そしてこの宙に浮かぶ亡くなった人たちの霊が
もっと休まるのではないかという風に思います。


辺見庸



これはNHKのETVこころの時代〜宗教・人生〜で放送されていた作家・辺見庸さんの言葉です。たまたま目にして、慌てて録画しておいたものを、ようやくしっかり見ました。
下にインタビューの全文を掲載します。

辺見氏は、「書く人」というのは、3.11以前に今の内容を予感して、もっと書くべきであった、と言っておられますが、私もしがない一ブロガーとして、それは感じていました。言ってはいたのですが、足りなかったと、思っています。
大切なものをこそ、訴えるべきです。震災前のすべてが悪いのではなく、でも悪い方向に行っていたもの、動機が間違っていたものが確かにあったので、よいものを探し出すようにし、選び抜いた言葉を発信していきたいです。

番組は1時間でしたが、最後の20分弱、インタビューの内容だけは、ほぼすべて録画できたので、全文書き起してみました。(最初の部分だけは、書き起こしされていたものを利用させていただいています。)それでは、どうぞ。

「瓦礫の中から言葉を」 作家 辺見庸

今流されているテレビのニュースの言葉。あそこに事態の本質に迫る、本質に近づこうとする言葉はあるだろうか。今、表現されている新聞の言葉の中にこの巨大な悲劇の深みに入っていこうとする言葉があるだろうか。

物(モノ)化された人間、つまり人が一体としての身体の形を留め置かないもの、部位としての人間しかないものが多数あったわけだけれども、それをないことのように映してしまう。それは人を救っているようで、ひょっとしたら違うのではないか。人はある日突然、全くゆかりもなくモノ化してしまうという哲理を、それをメディアは無視する。それは却って畏れ多いことではないかと、僕は思う。死者に対する敬意が逆にないのではないか、とさえ思うのです。

私も四半世紀以上メディアの世界にいたからよく知っています。オリンピック、戦争。メディアにいる人間は、個が個でたりえなくなる。誰も異を唱えなくなる。まるで一緒に戦っているような顔つきをする。

3月11日を境に少なくとも数日間、1週間か10日、テレビからコマーシャルが消えた。政府広告のようなもの、「人に優しくしよう」みたいなキャッチフレーズで、気が狂わんばかりに何度も何度も何度も繰り返されていく。今度は優しさを押し売りをして来る。あれは裏返して言えば3.11以前の、予感のない表現世界、それと変わるところがない。「皆でとにかく人を乗り越えてでも金儲けしようじゃないか」と言ってきたじゃないかと僕は言いたい。そのことに、あなた方の表現世界は奉仕してきたじゃないか、と僕は言いたい。「投資に乗り遅れるな」「ハイリスク・ハイリターンだ」と言ってきたじゃないか。そのための映像をあなた方は作ったじゃないか。そのための言葉を詩人たちは無警戒に作ってきたではないか。誰がそれに異を唱えたか、という風に私は言いたい。

人が買占めに走る、それを今頃になって醜いという。でもその姿は既にあった、大震災のはるか以前から。そのような世界に我々はずっと生きてきた。だから言っているだけです。そこには、もつべき予感というものをむしろ排除するものがあった。

破壊に至った時、それを予感しなかった責任は誰が問われなければいけないか。それは私であり、文を紡ぐ者たち――自称であれ、他称であれ、あるいは大家であれ、名もない者であれ――、詩人たち、作家たちは、全員がその責めを負わなければいけないという風に私は思っているのです。私たちはもっと予感すべきであった。書くべきであった。

僕は今もちろん怒っているけれども、怒ることは無意味だと思っている。書こうと思う。僕の誠実さはそれでもって証すしかできない。拙いけれども。これだけの出来事、それ以降の出来事に、僕の筆力表現は追いつかないだろう。到底追いつかないことばかりだ。けれども試みようと思う。それが亡くなった人たち、悼んでいる人たちに対する僕ができるおそらく唯一のことでないかというように思う。

我々はもともと、有るか無きかの言葉を持っていたけれども、それでもこの瓦礫の山、焼け爛れた、汚水に沈んだ、放射能の水たまりに浸けられた瓦礫の中に、我々が浪費した言葉たちのかけらが落ちている。それをひとつひとつ拾い集めて、水で洗って、もう一度丁寧に、抱きしめるように丁寧にその言葉たちを組み立てていく。それは可能ではないかという風に私は今思っているし、そう思いたいと思うし…。

焼け爛れて撓んで、水浸しになった言葉をひとつひとつ屈んで拾い集めて、それを大事に組み立てていって、何か新しい言葉、それは取りも直さず人に対する関心であります。言葉というのは単なる道具ではない。言葉というのは人に対する関心の表れだと思う。

自分たちが、あるいは失われた命が、世界のどういう位置にいるのかということを分からせてくれる言葉を発することができれば、もっと人の魂、今生きている魂、そしてこの宙に浮かぶ亡くなった人たちの霊がもっと休まるのではないかという風に思います。それを持ち合わせていないから、こんなにも不安で、切なくて、苦しくて、悲しくて、そして虚しい、空漠としているんだ、と私は思う。

その中には、もう戻りはしないであろう日常を、何日かすれば、何ヶ月かすれば、何年かすれば戻るに違いないという暗黙の了解のようなものがある。しかし、私はそうは思わない。私が、全く一個人の物書きの予感のようなものをここで誤解を恐れず言えば、そのような日常は戻りはしない。私は不安を煽るために言っているのではないわけです。そのような規模ではなかった。もし、かつての日常がかつてと同じように戻って、また文章家たちが商品を売るために文をひさげ、魂を売る、万物を商品化していく、そのような日常にまた舞い戻るとしたら――私は舞い戻らないと思うけれども――、舞い戻ることにはほとんど意味がないとさえ思う。

絶望ということを私は何度も考えました。絶望とうのは、できるというのは人のひとつの能力である。そして、今ある絶望をもっと深めていくというのも能力である。それが弁証法的に言えば、といえば難しくなりますが、新しい可能性への糸口になっていくのではないかと思っています。
絶望を浅い次元で、あるいは悲嘆というものを浅いままに終わらせて、自分のエネルギーを燃えつくしてしまうのは違うのではないかなぁと思っている。何とかそこを一歩踏み出して、深めていく。悲しみをもっと深めていく。絶望をもう一段深めていく。自分の魂、自分の悲しみの質に合った言葉を、言(げん)を探して、それを一連なりの表現にしていく、それが絶望から這い上がる糸口になるのではないかという風に私は思っているのです。だから、絶望と悲嘆はとめ置かない。それをそれとしてとめ置くのではなく、逆にむしろ深めつつ言語化していくという作業が、若くても必要だと思う。

我々はそれでも生き残ったわけです。あるいはこうも言えるかもしれない。生き残ってしまったと。あの震災の破局のただ中にいる人は――私の友人もそうだし、彼らからそう聞きもしましたけれども――、生きていることは偶然なんだ、あの光景にあっては死することが当然なんだ、生きていることがたまたまなのであって、死ぬることが普遍なんだ、という風な、3.11以前とは全く違うパラドクシカルなことを言う人もいる。でも、私はこの、ひっくり返ったような言い方、表現は、一面どころか半面の真理を語っているという風に思うんです。われわれはそれを、少なくとも思想の中に含みもってもいいのではないかという風に。

やはり私は、いつどこに向かって歩き出せばいいかという設問をする時に思うんです、言葉は必要であると。

私たちを見捨てた言葉を、われわれがもう一度回復するということが必要である。廃墟にされた外部に対する内部をこしらえなければならない。新しい内部を自分の手で掘り進まなければいけない。私の言葉で言えばこうです。著しく壊され破壊され、暴力の限りを振るわれた我々の外部に対して、私たちは、新しい内部を索(あなぐ)り、それを掘らなければいけない。何を言ってるのかといわれそうですが、分かって下さる方もいると思う。

我々は、廃墟に佇んで、立ち尽くして、あるいはよろよろと歩き出しながら、新しい内面をこしらえる必要がある。徒労のような作業かもしれないけれども、それは意味のないことではない。新しい内面を、新しい内部を我々はこしらえる。それは決して、いたずらに虚しい物理的な復興ということだけではない。あるいはどこか虚しい集団的な鼓舞を語るのではない。日本人の精神という風な言葉だけを振り回すのではない。もっと私(わたくし)として、私という個的な実存、そこに見合う、腑に落ちる内面というものを自分にこしらえる。ということは私はあまりよう言わないのですが、それが希望ではないかと僕は思っているわけであります。

少々、難しい表現もされていますね。共感する内容を、かみくだいて、明日解説したいと思います。


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写真は「アカツメクサ」ひでわくさん