嫌いなものは、嫌い、好きなものは好き、と言っていたら、狭い世界に自分を押し込めることになるでしょう。
また、きっと人のことではなく、自分自身の中にも嫌いなものがあったりして、それをいつまでも克服できないのではないでしょうか。
自分の越えているものに対しては、気にならないで受け入れることができます。でも、自分の中にある汚いもの、嫌なものがあるから、人の中にも自分の鏡のようにそれを見つけてしまうのです。
逆に好きになるには?
幼い子どもにとって、親というものは、無条件に慕う存在です。どんな親でも慕ってくれるのですが、それは親が本来、無条件に子どもを愛するから、
鳥の雛が最初に見たものを親と思って信じてついて行くように、盲目的に従うようにできています。
金子みすゞは世界中のものを愛していたようです。
親に愛された記憶というのは、知らず知らずにその人に身について、人を受け入れ、世界をも受け入れることができるようになるのでしょう。
「お母さんの作った食事だから、好き」、「神様が作った世界だから、みんな好き」、
こういう風に思えることは、一種の才能です。
幼い子どものように、世の中を見つめられること、好きでいられること…。
汚いもの、嫌なものがあふれていても、その中から、愛を感じることができる心、美を見出すことができる心です。
おんなじ風が吹いても、それを薫風と感じられる心…。
みんなを好きに
私は好きになりたいな、
何でもかんでもみいんな。
葱も、トマトも、おさかなも、
残らず好きになりたいな。
うちのおかずは、みいんな、
母さまがおつくりなったもの。
私は好きになりたいな、
誰でもかれでもみいんな。
お医者さんでも、鳥でも、
残らず好きになりたいな。
世界のものはみィんな、
神さまがおつくりになつたもの。
私は好きになりたいな、
何でもかんでもみいんな。
葱も、トマトも、おさかなも、
残らず好きになりたいな。
うちのおかずは、みいんな、
母さまがおつくりなったもの。
私は好きになりたいな、
誰でもかれでもみいんな。
お医者さんでも、鳥でも、
残らず好きになりたいな。
世界のものはみィんな、
神さまがおつくりになつたもの。
優しいけど、何でも食べる子は、強く逞しく育つはずです。
今日もいい一日を!
写真はひでわくさん「梅にメジロ」